文法の問題を解く時には意味をとることを重視せよ。形よりまず文の意味を先にとることだ。
現代でも和歌や俳句は「古文」で書かれる。それは古文とはいわないで文語というのだが、雅語として残り国語辞典に載っているものがある。今でも「ありし日の何々」と「過去の助動詞き」が使われるし、戦時中には「何々せり」と「完了の助動詞り」がわざと使われていた。文語は少し重重しい響きを持っている。
古文らしい言い回しに慣れるには、まず動詞それも上二段下二段活用に慣れることだ。たとえば、現代語の「求める」は文語では「求む」連体形は「求むる」。「求む何々」などの言い回しは現代でも使われているのだ。口語の「得(え)る」は文語では「得(う)」連体形「得(う)る」。こういう言葉を知っているだけでも慣れるのは早いだろう。このような動詞の活用は高一で定期テストの度に覚えることになる。高校二年になると助動詞の意味が加わる。これは単語以上に読解に重要だが、分量が多いわけでないし現代語と共通部分もある。活用も表の丸の位置まで棒暗記するのではなく、「らりりるれれ」のラ変型など、ほとんどが用言の応用だから要領よく覚えるのがいい。私が要領よくと言っても、細かいことをいう古典教師も多いらしいから、それに合わせるしかないのは可哀想なことだが。「助動詞『り』の接続はさみしい=サ変未然形、四段已然形」と覚えるよりは「せり」だけ覚え、同様にラ変の接続や「来(こ)し」「来(き)し」なども文法事項としてではなく言い方として覚えるのがいい。
また、単語でもそうだが、語源意識を持つと言葉や日本語の発見にもつながる。「べし」は北日本では「べ」として方言で残っていて推量意志適当などの意味も同様だし、「む」なんかは現代語でも使われる。呼応の「え~ず」は関西弁に「よう~しまへんわ」と残っている。
古文の用言や助動詞の活用になれるには、現代語の活用を中学生の間にしておいたほうが入りやすい。活用以外でも単語の区分を通して現代語と文語の違いがわかるし、現代語がどこから生まれてきたかを知ることもできる。たとえば「あの人」は「あ(遠くを指す)+の+人」はじめ「こそあど」を使った婉曲などの言い回し、たとえば「さながら」「さりとて」「さるは」などなどの言い方は、「そうですね~」現代にも通じますかね。
古文の成績は家庭教師で比較的簡単にあがる。ただし、学校の定期テストに限る。プロ家庭教師による個人指導は文法の練習や重点的な指導によって効率的に学べる際たるものだろう。しかしながら、その次のステップは少しばかりハードルがある。単語や文法を忘れないようにすることは当然だが、古文の学習のページで述べるような言語感覚や常識がそのハードルとなる。日々、読書などを通して鍛えておいてほしい。
品詞の分類のなかで、ややこしいひとつが形容動詞。「静かだ」は形容動詞だが「学生だ」は「学生な人」とは言わないので名詞+断定助動詞「だ」。しかし、古文の場合は断定の助動詞「なり」はそっくりそのまま形容動詞と同じ活用。じゃあ「いたづらなり」は何?「いたづら」とか無駄というような意味だから名詞+なり?そこで主語になるかどうかという観点で名詞と形容動詞を分類する。「いたづらは面白い」とは古文ではいわないのでこれは形容動詞。結局、形容動詞を名詞と区別するのは、「性質を表す(形容する)」という働きとなる。しかしこれにも落とし穴があり、たとえば、「幸福な人」は形容動詞「欲しいのは幸福だ」は名詞。あいまいであるからか、「岩波古語辞典」では「形容動詞」の分類がない。分類が学者によって異なるのみならず、学校文法は多くの問題点がある。一方、日本語教育の方では形容動詞という言葉は使わないで、「ナ形容詞」と分類し、使い方は名詞に似ていると教える。たとえば「ナ形容詞」として「親切な人」の「親切」を名詞と考えると「親切の人」という間違いをする外人がいるから、実用的な見地から形容動詞と名詞を区別している。
主語になるのが名詞。主語になるかどうかといえば、現代語で連体詞に分類させてる「その」などは昔は「そ」と「の」に分かれていた(分類上ね)。「大きなり」は形容動詞、「ちひさし」は形容詞。現代語では大きなも小さなも共に連体詞。(昔はなかった「大きい」という形容詞が中世に出来ている)ただ、「大きなお世話」とは言うが「大きいお世話」と言わないとか、なにがしかの意味の違いが残っていて興味深い。
品詞分類自体が色即是空みたいな感じだが、文法の問題を解くことは、言語感覚を試されたり、ああでもないこうでもないと考える面白い面があります。そして、実は文法以前の意味内容が問題になることが多いのです。畢竟読解と同じで、文の内容をイメージすることが文法の出発点です。文法は、学者によって体系は違うし、目的によっても異なる。たとえば、外国人に日本語を教える場合などは、外人にもわかりやすい活用を教えるための体系があったりする。しかし、学校では「ゾウは鼻が長い」の主語はなんですか?などといったナンセンスな問題が教えられている。助動詞だって「給ふ」を助動詞扱いするものから、助動詞を認めない文法まで幅は広い。また、人によって言葉の意識が異なる場合もある。感覚的な言葉使いの清少納言と近代的ともいえる紫式部の言葉使いはどうも同じ時代のものとは思えなかったりするのだ。
助さん「ここにおわすはどなたと心得るか!天下の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」ブー。敬語の使い方が間違ってますね。現代文法では身内には謙譲語を使うべきなので、切れるビジネスマンなら「こちらにおりますのは、小社で副将軍をいたします水戸光圀と申します」と謙譲語を使うべき(笑)
つまり現代の敬語は、自分側(身内)と相手側(お客)に分け、どう待遇するかという使い方に重点があります。しかし、古文ではより立場や身分を直接表す意味に用いられます。とにかく身分が高ければ敬語を使うので、上の助さんの例は実に正しいのです。古文では「お客」も「身内」も考えずに済みます。いや良かった、すごく単純。ただただ「身分」と「自分」(話者)さえ考えれば済みます。尊敬語も謙譲語も方向が変わるだけで、身分の上下関係を表すのです。もちろん、会話文では自分の子供や身分の低い人にも「たまふ」を使います。これは、敬語の働きとして身分関係なく相手に敬意や距離を示す使い方があるといえます。これらは尊敬語でも謙譲語でも丁寧語に近い使われ方であり、待遇表現として敬語の働きは昔からあったわけです。
ところで、尊敬の助動詞「る・らる」には尊敬の他に受身、可能、自発の意味があると習いました。
いったい、受身と尊敬と可能と自発に何の関係があるでしょう。それらに共通するのは、何か「自分を超えた力」に対して働きかけられるという意味ではないでしょうか。何かをされる受身。大きな力によって自然に心の中に感じられる自発。大きな力によって妨げられ何かが出来ない。自分を超えた者への尊敬。(面白いことに受身には迷惑感があり、可能には不可能感がある)
ところで、今回敬語の5分類化で丁重語が「謙譲語2」として「独立」することになったのです。謙譲語の一部が丁寧語に近いと考えるというわけです。しかし、元々、謙譲語と丁寧語は共通語彙が多いです。現代語では「いたす」などがあります。また、古文の丁寧語の「侍る」「さぶらふ」は元々貴人の側にいると言う意味での謙譲語ですね。今回丁重語に新分類された「参る」「申す」も相手がなければ丁寧語に近いというわけです。分類しにくいグレーゾーンはグレーのままで謙譲語と丁寧語の中間とでも言えばすみそうなものです。が、そうはテストが許さんか。