随筆の読解
随筆らしさの根は文章の平板さと読者へのサービスのなさかもしれない。小説や論説文のように読者に解りやすくするための順を追った説明や読みやすくする工夫はあまりない。それどころか、話は勝手にころころ変わるし、考え方もふつうじゃない。(ふつうだったら面白くない。)随筆らしい随筆はどこかしら作者の「自己中」な世界の表現だといえる。その代表格はもちろん彼女。「春はあけぼの」山際がすこし明るくなって何が面白いのか、寝てた方がましだ、という中学生に一言。文は内容だけではなく、語呂や語感、詩や歌のように読むのも大切だ。
随筆では、ゆっくりと口に出すようにして読んでみると筆者の言いたいことが伝わり、わかりやすいことがある。随筆というのは文字どおり筆に随(したが)って書くので、頭ではなくて筆が書いているのだ。体が書いていると言っていいかもしれない。 随筆では筆者独自の考え方や世界という別世界を理解しなくてはならないことが多い。一見むずかしい言葉を使っていなくても、他の人の独特な感覚や世界を理解するというのは難しいことだ。
もし、あなたが大人で、英語や古文を学んだことがあれば、論理的な文章より、くだけた言い回しや省略された会話文などの方がかえって難しいのは分かっていただけると思う。それは、前提になっているが書かれてはいない「世界」つまり、場のようす、時代や、考え方や、人間関係のようす、物事の味わいを知らなくては、または想像できなくては、文章の意味が理解できないからだ。もちろん、こういう他者の生きる世界を理解するということは随筆に限らず大事なことで、実はこれが国語の核心でもあるのだろう。国語はつまる所、読みとることよりも、共通の常識や共通の感覚が重要だと思うのだ。世界に関心がなければ、物事は平板に感じられるだろう。
また、知的な操作から遠いのが随筆や詩であるともいえる。ちょうど、芝居で物語と関係ない「体」を使うダンスを見るようなものだ。
読む場合も、頭の中で踊って(読んで)みよう。また、あなたの常識でとても解りにくい部分があったなら、それは何かの「たとえ」のようなものダと思って、あなたの知っている別の何かに置きかえてみよう。花鳥風月もキティちゃんやハムスターにおきかえてみるとするか。